2020年7月27日月曜日

S_nao NOTE 良心と自由

.「憲法19条『思想及び良心の自由』を我々は本当に持っているのかー「日本人」であることの強制ー」

 

(1)日本人であることの強制

 私たちは憲法で人権が保障されており、憲法19条では「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされている。しかしそれは伝統的には内心の自由を保障されるものであって外部に発する自由は保障されていないとされている。そのため「普通とされていること」への抵抗はできないのである。そのためわれわれは「国」に「日本人」という人格を強制されているのではないだろうか。

(2)「思想及び良心の自由」について (注「良心の自由と子たち」(2006) 西原博史 岩波新書 第一章 引用)

良心の自由は思想・良心に関わる問題を内心に閉じ込めて、外部的行為と遮断する解釈は認められず、むしろ外部的行為と必然的に結びつき、一人の人間としてどう生きていくのかに決定的な影響を及ぼすかという点に本質があるとされている。法に命ずるところに従えば自分の良心に背くことになり、自らが統一的人格として生きる上で頼りにしていたものを自分の手で壊しうり、この状況で法による義務付けを貫徹することは人格アイデンティティの自己否定を強いてしまう。法を通じて守れるのは社会秩序の最小限であるため法が個人の思想・良心に課す特別な負担に配慮することは社会存立には不可欠である。また、個人の思想・良心を尊重する、という原理を踏まえるのならば、第一に、個人ごとに道徳的・社会的・政治的な判断の正しさを判定する基準が間違っているという点を認めなければならない。

良心の自由には信条説と内心説の二つがあり、信条説は完成度をもって統一体を成し、広く世界観や主義や思想や主張を持つことが推及され、個人の具体的な行動を支配する行動原理としては機能しないというものである。それにたいして内心説は国家権力が害悪を防ぐ目的で規制の対象にする理由がないため思想・良心の自由を制限することが許される場面はないため思想・良心の自由を無制限としており、これは法が関心を持つのはただ外部に現れた具体的行為のみだとしているからだ。

(3)国家斉唱の強行 (注 一部「良心の自由と子たち」(2006) 西原博史 岩波新書 第二章 引用)

公立高校の卒業式などでの国家斉唱において「一同起立」と号令がかけられる場面においてこの起立という行為が思想及び良心の自由において「強制」されてはならないとされる「国家斉唱」行為である。そのためそれに従わずに着席していたとしてもそれを公権力が処分することは許されていない。また有馬郎二郎文部大臣は国家斉唱自体を「国家斉唱はその人の自由であり、ほかの人に迷惑をかけない格好で、自分の気持ちで歌わないということはあり得る」とは言った。この儀式における国歌斉唱の挙行は法的意味での「強制」を前提にする場合には「君が代」全体が違憲無効であり、 事後的にただ逸脱的にのみそうした法的「強制」措置が置かれる場合、その措置が違憲無効である。

(4)「国旗及び国歌に関する法律」について

平成11813日に制定、即日施行されたのが国旗及び国歌に関する法律である。この国旗国家法制定を推進したのには国旗・国歌でないことによる正統性の弱みを繕い、抵抗をなくすことが狙いだった。この法律は「君が代」が国歌であり、「日の丸」が国旗であることを法律と定めた。もともと国旗国歌の法制化の動きはあったが、戦前の日本の天皇制、軍団主義を象徴するものとして反対があったため1999年の制定、施行となった。音楽教師が「君が代」伴奏を拒んだことから戒告処分を下しそれを提起した君が代伴奏職務命令事件ではじめてこの見解が示され、伴奏は通常想定されるものであることであるため外部に表明する行為とはできないという意見と意思に反することを強制したことが否定的評価なのであるという意見が対立した(注 君塚正臣(2018)『大学生のための憲法』法津文化社 第七章P.98~99 引用)。

()考察

今回の研究をするまで自分に「思想及び良心の自由」があるということ、つまり国歌斉唱を拒む権利があるというに気付かなかった。それは小中高校でそれが当たり前と感じうる教育をされたからだ。しかしインターナショナルスクールに通っていた友人の話を聞いた時に違和感を感じたのは「思想及び良心の自由」の欠如があったからである。インターナショナルスクールは多国籍の生徒が在籍しているため、始業式や卒業式での国歌斉唱が存在していなかった。つまり日本の学校に通っていた私は「国」に縛られているため国歌を斉唱しているのであった。その時に気付いた事は今の自分の人格を形成しているのは「国」であったのだということである。日本で育ったからお箸を使う、屋内では靴を脱ぐなど「文化」と一括りされているものも「思想及び良心」を奪われる、というよりも存在を知らされていないことで成り立っているのだと感じた。つまり伝統的な考えで「思想及び良心の自由を侵してはいけない」という文言が内心の自由を保障することを意味することで日本人に日本人らしく日本人の文化、伝統に則って生活することを強いていたのではないか。

 

 

主要参考文献

 

  西原博史(2006)『良心の自由と子供たち』岩波新書

 

竹嶋千穂(2018)『思想及び良心の自由の法理に関する一考察 ―「知性と精神の領域」

から ― 』社会研論集 Vol.32 20189

 

奥野恒久(2018.5)『思想・良心の自由をめぐる今日的問題』研究ノートP151~

 

    佐々木弘道(2001)『「人権」論・思想良心の自由・国家斉唱』成城大学法学66

 

    君塚正臣(2018)『大学生のための憲法』法津文化社


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